4、仕事始め

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4、仕事始め

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寒い朝だが目覚めは爽やかだった。
東側の窓からはカーテンの隙間を漏れた朝陽が、西側壁に貼った綾部商店街カレンダーを照らし、小鳥の囀りも聞こえる。
いつも自動車の騒音で目覚める北千住の朝から思えば、まるで別世界にいるようだった。
誰の差し入れか、夕べ歓迎会を開いた舟半の寿司と綾部産煎茶とインスタント味噌汁のパックがあり、それで朝食を済ませた。
多少、二日酔い気味だったが今日は金曜日で週末が忙しいと聞いている。仕事始めには中途半端だが気合は充分入っている。
朝九時、商工会議所に出勤早々、中上専務理事から先制パンチが来た。
「とりあえず、すぐ名刺をつくるが、肩書きはなにがいい?」
肩書など考えてもいないから「エッ?」と驚くしかない。
「自分で考えていいんですか?」
「当然だろ? 自分の仕事なんだからな。肩書はあったほうが対外的にはやり易いぞ」
「でも、新入りが観光客誘致企画課長なんて変でしょうね?」
「いや、そいつでいい。そんな課があってもいいからな」
「でも、実際にはないんですよね」
「ここで人に会うときは、わしの机に観光客誘致企画課長の名札をおけば、それで既成事実になる」
「でも、ここは役員室です」
「事務所にはまだ大橋君の机はない。君がお客を呼ぶときはここが君の部屋だ。わしは事務所に入るか喫茶店に行く」
専務理事は、昨日お茶を運んだ女性職員を招き、改めて紹介した。
「総務の加納美紀だ。大橋君は昨日紹介したな? 名刺を頼むが、観光客なんとか課長だ。何だっけ?」
「観光客誘致企画課の課長ですけど冗談で言っただけですよ」
「いや、今日からその企画課の課長だ。それで名刺を作ってくれ」
「あら、何の実績もない新人なのに、いきなり課長ですか?」
「外交用さ。まさか見習い職員なんて名刺は作れんだろ。仮の肩書で、いわば冗談さ」
「冗談なら許されるのですか?」
「そうだ。加納くんならさしずめ秘書課長だな」
「冗談でしょ? ここに秘書課はありませんよ。私は総務課です」
「構わん。辞令は出さんが今日から仮の秘書課長だ。あくまで冗談だぞ」
色白で瞳の黒い加納美紀が、顔を崩して嬉しそうに微笑んだ。
「女性職員は五人いるのに、わたしだけ昇格ってわけにはいきません」
「仕方ない。この新入りが企画課長なんだから、冗談にせよ、他の者も昇格せんといかんだろうな」
「課長手当はあるんでしょうね?」
「そんなものあるもんか。大橋くんが実績を上げて定住市民が増えれば別だがな」
「では、大橋さんが実績を上げたら昇給ですね?」
「その通りだ」
加納美紀があわてて姿を消し、すぐ同僚を連れて現れ、念を押した。
「紗栄子さんは?」
「うるさいな。神山紗栄子は総務課長だ。面倒だ、全員連れて来い」
加納美紀がまた立ち去り、どう説明したのか、男女の別なく職員一同が喜色満面で役員室に集まり、品のいい女性が穏やかに聞いた。
「専務。美紀さんに聞きましたが、わたしたち役職が上がって昇給ですか?」
「なんだ福岡多佳子? これだから女はダメだ。冗談が通じないからな」
「それってセクハラです。人権問題で訴えますよ」
「どうしたんだ。温厚な福岡係長らしくない過激な発言だな」
「ヒラの美紀さんが課長なら、係長の私は部長ですか?」
「部長補佐があるじゃないか」
中小企業相談課の佐々木武夫課長が笑顔で言った。
「私は欲張りません。肩書はこのままで結構、二割昇給で妥協します」
「うるさい! 肩書は冗談なんだから勝手に自称しろ。昇給はこの大橋君が成果を上げてからだ」
全員が小太郎を凝視し、総務の神山紗栄子が頭を下げた。
「大橋さんが働いて、わたし達の正式昇格と大幅昇給、有難うございます」
「そんな約束・・・」
「約束は専務理事がしました。大橋さんはわたし達のために精一杯頑張ってください」
ここで全員が「お願いしますよ」と小太郎の肩を叩き握手をし、深々と腰を折って礼を言った。
事態が思わぬ方向に推移して中上専務理事も焦った。
「こうなれば、大橋君担当に二人つけよう。芦沢局長、誰がいい?」
「福岡係長、いや福岡部長補佐は今の仕事で手いっぱいでした。加納、神山両課長でいかがですか?」
「あら、わたし達だって忙しいですよ」
「あんたら、二人は婚活で金が要るだろ? 昇給はいいのか?」
指名された二人が顏を見合わせて頷き異口同音に応じた。
「お引き受けします」
「ちょっと待ってくれ、いや、待ってください」
「いえ、待ちません。わたし達いま結婚資金貯蓄中ですので、今日から大橋さんに期待してお手伝いします」
毅然として小太郎を見つめた二人の表情が真剣なだけに、小太郎はたじろいだ。
中上専務理事が、励ましか慰めか、硬い表情の小太郎の肩を叩いた。
「専用電話も入れるぞ。それに、男なんてな皆、このようなプレッシャーの中で働いてるんだぞ」
「中上専務もですか?」
「家に帰るとな。いつも女房に{大臣にはいつなるの?}て言われ続けてるんだ」
加納美紀が口を挟んだ。
「それは、専務が悪いんです。上林地区から文部大臣が出たとき・・・」
神山紗栄子が続けた。
「俺だって大臣ぐらいにはなるぞ、って言ったと奥さんからお聞きしました」
小太郎が専務理事の肩をもった。
「まだ、これからですよ。文部大臣どころか総理にだって」
「そりゃあそうだ。男にはそのぐらいの覇気がないとな」
女性二人が顔を見合わせて深く頷いた。
「そうでしたね。そのように奥様にお伝えします」
「市の広報の新年号に、商工会議所専務理事の初夢として乗るかも知れませんよ」
「おいおい。やめてくれ。街中の噂になってはたまらんよ」
中上専務理事があわてて止めたが遅かった。
ますます状況不利になった中上専務理事が、小太郎に八つ当たりする。
「君がいるから妙な風が吹く。早く仕事に出かけてくれ」
「どこえ?」
「まず、役所に行って隆夫君の指示を仰ぐのが筋だろ?」
「そうします」
「多分、グンゼに行くことになる。その間に仕事の段取りを両課長が考えるはずだ。楽しみにしてるぞ」
「私たちも期待してます」
「頑張ってくださいね。あとで電話します」
部屋を出る小太郎の背に、女性二人の上品さも遠慮もない明るい笑い声が響く。
(さあ大変だ!)
まさか綾部を動かす実力者の中上専務理事が、小太郎ごときに本気で期待するとは思えない。
大部屋に戻り損ねて役員室に残っていた芦沢局長が、思い出したように言った。
「大橋君用の車は裏の会議所専用駐車場に入れてあります。大橋君、見ますか?」
「早速、それで役場に行ってきます」
事務局長の案内で駐車場に行くと、車は小型どころか大柄な3千CC四駆のバンガード、クリームの色も悪くない。
小太郎をからかうにしては少し手が混みすぎている。こうなれば、やれるところまでやって逃げ出すしかない。
小太郎の腹は決まった。