5、由良川・凧揚げ大会

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5、由良川・凧揚げ大会

大橋小太郎はこの日、午後一時開始の凧揚げ大会の取材を兼ねて、自作の黒谷和紙六角凧を抱えて勇んで由良川河原の第二市民グランドに愛車で向かった。
凧揚げ大会の主催は由良川凧揚げ大会実行委員会、後援は綾部市観光協会・綾部青年会議所・綾部商工会議所青年部・綾部市環境市民会議・綾部市・綾部市教育委員会、協力は黒谷和紙協同組合に「ハッスルかあちゃんの会」などという不思議な団体が名を連ねている。
この由良川凧揚げ大会は、綾部市内外に向けての観光振興と、パソコンゲームなどで室内に籠りがちな子供達を自然に戻そうとの狙いもあり、健全な青少年育成を目的に開かれていた。小太郎もここに参加する以上は健全な青年であらねばならない。本来は親子での参加が基本での凧揚げだが、綾部商工会議所協賛の大会で目的が取材とあって特別参加が許されていた。ただ、本人は目的など忘れて凧揚げモードに突入していて心はすでに大空に舞い上がっていた。
この日の参加者は、先日の天文館パオでの凧作り教室に参加した約100組の親子連れが主体で、他にも大勢の市民や観光客が集まっていた。この日も、先日の凧作りを指導した日本凧の会の塩見指導員も来ていて、小太郎の凧を見て怪訝な顔をした。
「大橋さんの絵は綿菓子でしたが、航空機が雲海に突入する図柄に化けましたか?」
「はい」
「これなら、綿菓子よりは確かに空高く飛ぶかも知れませんな」
小太郎が受付で参加費の二百円を支払うと、73と数字が書き込まれたゼッケンが手渡された。
「宜しければ、あちらでゼンザイが振る舞われています」
先着百三十名までにゼンザイのサービスがあった。寒い日だから「ハッスルかあちゃんの会」のご婦人方差し入れの柔らかい搗きたて餅の入った熱いゼンザイは、甘党でもない小太郎にも特別に美味しく感じられて嬉しかった。
参加者がゼッケン番号順に自慢の凧を抱えて、十人づつが整然と並んでの開会式が始まった。
どういう風の吹き回しか市長代理の代理で開会前の挨拶に登場したのが管轄違いの西山隆夫部長、突然、頼まれたらしい。
五列目に並んでいる小太郎を見つけていささか動揺したのか、小太郎を見つめながらの挨拶が支離滅裂で不当だった。
「・・・主旨は健全な青少年の育成ですが、参加者の中には健全年に見えない青年もいますが、今日は仲間に入れてあげてください」
その西山の視線の先には小太郎がいて、参加者の目がいっせうに小太郎を見ている。本人は不健全などとは思ってもいない。
十人づつまとめての手作り凧のデザイン審査が始まった。
七列目の小太郎の凧を見て高校の美術教師だという審査員が唸った。
「雲海を突き抜けて上昇する航空機か・・・いいアイディアですね。これはいい。皆さま、いかがですか?」
「たしかに、悪くありませんな」
「そうですね。優秀賞候補にキープしますか?」
審査員四人のうち三人が頷いたが、ただ1人、凧の専門家・塩見指導員が首を捻った。
「たしか、大橋さんの絵は下手な串団子でしたね?」
「いえ、綿菓子です」
「では、この上手な航空機はどなたが?」
「商工会議所の上司に手伝ってもらいました」
「残念でしたな、家族外は認められないんです」
「そうですか・・・」
背を見せた小太郎に、美術教師が気の毒げに言葉を投げた。
「凧の揚がり方にも審査があります。糸目の調整がいいようですから期待できますよ。頑張ってください」
周囲の山々の陵線は白一色の雪山ながら空は蒼く澄み渡り、その中に高々と無数の手作り凧が舞い始めた。
周囲の声を聞くと、何年も前に作って揚げずにおいた古い和凧を持ちだしてきた親子もあってそれぞれが楽しそうに遊んでいる。
審査員が会場を飛び回って空を眺め、安定して上空を舞う凧を見つけては、凧の持ち主のゼッケン番号をメモしている。
この、上手く揚がる凧の審査が、この日のメインイベントなのだ。
大空に舞う凧は、大会参加者以外も多数あって空一面に青空を埋め尽くし、上下左右に揺れながら接触したり巻き付いたり叩き落したりしてトラブルも多発している。その中にあって小太郎の凧だけは悠然と大空高く舞い上がって微動だにしない。
誰の目にも小太郎の凧こそが由良川凧揚げ大会の王者に相応しいと見えるらしく、称賛の声がちらほら小太郎にも聞こえていた。
地元の放送局「FMイカル」の取材班がカメラを小太郎に向けた。見ると、三井明日香が笑顔でマイクを向けている。
「突然で済みません。見事な揚げっぷりですが、お名前は?」
「名前って、三井さんには何度も会ってるじゃないですか?」
三井明日香が苦りきった表情で振り向き、カメラを担いだ撮影係りの男に言った。
「カット! この人は空気が読めてないのよ」
小太郎を見て諭す。
「大橋さん! 対外的な番組です。この場面は一般市民の顔でしょ? もう一回、本番いきますよ」
小太郎には意味がよく分からない。三井明日香が再び聞いた。
「見事な揚げっぷりですが、お名前は?」
「大橋小太郎です」
「いま、優勝候補に挙がってるそうです。頑張ってください」
そこに見知らぬ若い女性が割り込んで来た。
「この方が最優秀凧揚げ選手候補? 商工会議所の大橋さんでしょ?」
三井明日香が焦った。
「新聞の取材は後にしてよ。こっちは忙しいんだから!」
カメラマンが怒鳴った。
「明日香さん。おれ、音消して凧を撮ってるからな」
「もういいわ。よそへ行こう!」
あやべ市民新聞の記者と名乗った女性がいくつかの質問をした後に、場違いに会社のPRをするが小太郎の耳には全く入らない。
「・・・」
「あやべ市民新聞は、綾部市の情報満載で只いま購読申込み受付中です。本社所在地は綾部市大島町沓田四丁目、当新聞は、京都府綾部市をエリアにして週3回、月水金発行の隔日夕刊紙で、エリア内の購読率は六十%強で発行部数は三千部以上・・・聞いてますか?」
「聞いてますから、もっと離れてください。おかしな仲に見られますよ」
「まさか? 大橋さんじゃ。当社の新聞は五軒に三軒に愛読者が増え、いまや綾部市内最強の新聞媒体です。創刊は昭和五十八年、 両丹日日新聞社と綾部新生時報社、北都タイムス社の三社が協力して設立した・・・」
そこに、ミラクル美容院の倉林ママが和服姿で近づいて来た。毛皮のショールが似合って温かそうだが動物愛護協会の人が見たら目を剝くに違いない。
「あら、隣り組の和美ちゃん、何してるの?」
「ミラクルのママこそ、どうしたんですか? 私は同じ町内の新聞社の社長に頼まれてのバイトです」
「うちらと同じ大島町ってことは市民新聞の高沢社長ね? 自分は働かないで・・・」
「そんなことありません。働き者の社長ですから年中飛び回っていてお忙しいんです」
「あら、社長をかばうなんて怪しいわね?」
「とんでもない。あんな堅物の社長なんて。ママこそこの大橋さんとどんな関係です?」
「あんた、取材の方向が間違ってない? もっとも大橋さんに興味がある物好きな仲間もいますけどね」
なにやら言いたげなバイト記者を誘って、ミラクルママが捨て台詞を残して去った。
「大橋さん。あちらで仲間と応援してますよ。優勝したらお祝いの会をしますからね」
「まだ、そんなの・・・」
入れ替わりに市役所広報課の梅野木邦子が来て、デジカメのシャッターを切った。
「大橋さん。だんとつで優勝らしいって噂を聞いてとんで来ましたが、なるほど、綾部の空を制覇してよく揚がってますね」
「たまたまですよ」
「優勝したら大きく広報あやべの紙面を飾りますよ。聞いたところだと、芦沢さんに協力してもらったそうですね?」
「協力どころか何もかもです。事務局長なら凧博士になれますよ」
「それは伏せておきます。家族外協力は何となく不文律違反ですからね」
梅野木郁子が去った後も入れ替わり立ち代わり知人や他人が優勝を祝福してゆく。小太郎もすっかりその気になっていた。
優勝という響きの快さは小学校の運動会、釣り大会、草野球、仲間の麻雀、男なら何でも血が騒ぐ、小太郎の血も大きく騒いだ。
やがて終了の合図があり、仲良く凧揚げを楽しんでいた大会参加者がいっせいに糸を巻き始めた。
すると、それまで大人しく大空で共存共栄で縄張りを守っていた善良な市民凧が空気抵抗と上空の風に煽られて激しく揺れて絡みあったり一挙に暴れたり思いがけぬトラブルがあちこちで生じ始め、いつの間にか優勝寸前の小太郎の凧にも絡まる不埒者がいて、糸巻きへの抵抗が強くなり、凧が上下左右に大きく暴れる度に他の凧を絡めて、その数が重なる度にあちこちから怒号や罵声が乱れ飛び、力比べの引っ張りっこが始まり、幾つかの凧が糸切れで風に乗っていずこへか飛び去った。そうなるともう平和な凧揚げ会場の一部が戦場となって小競り合いが始まりもはや子供の出番はない。集まっていた一族郎党の父兄が寄ってたかっての力比べで重なり合った凧の団体が枯草上に叩きつけられ、凧揚げ当事者の身内がその場に殺到して、綾部市内では珍しい取っ組み合いなどの醜態も見えて観客を喜ばせていた。
小太郎も懸命に糸を巻きながら足早に凧の落ちた場所に急いだ。
凧揚げ大会のルールでは、終了の合図前の飛翔姿勢で優劣を競うため、糸を巻いてからのトラブルは関係ない。何はともあれ優勝と目された以上は焦る必要は全くない。あとは表彰式を待つだけだ。
ところが凧揚げ大会優勝という小太郎の野望は、呆気なく潰えた。理由は単純、凧の集団墜落現場に小太郎の凧の姿が見えないのだ。
二重三重に絡まった凧糸の戦いに敗れた小太郎の凧は、遠く遥かな旅に出て帰らぬ凧となり、小太郎の優勝も儚く消えた。
いくら飛翔姿が突出して優れていたとしても、肝心の凧を持たぬ優勝者の表彰式など有り得ないからだ。
小太郎は、佐々木課長の「絹糸は湿気に弱く風邪を引いて劣化するから凧には向かない」の言葉を思い出し、この糸を推奨した中上専務理事を恨んだ。古いグンゼの絹糸で凧を揚げるなど所詮は無理だったのだ。
それでも大会役員の推奨で、小太郎には残念賞として糸巻き付き「綿系撚りの凧糸百メートル」が贈呈され、ささやかな拍手を浴びて面目を保った。小太郎は、優勝して満面の笑顔で凧を振って盛大な拍手に応える小学生を撮りながら、凧揚げはいいが凧作りは「こりごり」、本音でそう思っていた。