3、車内にて

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3、車内にて

夕闇の山路を抜けて列車は綾部駅に向かって走っている。
あの、あやべ温泉での餅搗きも難しかったが、この百人一首からみたらほんのお遊びだった。
昨年暮れ12月28日の朝、小太郎は愛車の4駆のバンガードで雪の残る上林地区のゆるい上り坂を走って睦寄町のあやべ温泉に行った。
市会議員や町の有力者、あやべ温泉関係者の挨拶があって、揃いの法被を着た高齢者男女数人がいて餅つきの模範演技があった。
男が杵で餅を搗き、女が腰を屈めて餅を捏ねる。この掛け声と身のこなしが阿吽(あうん)の呼吸で見事に合っている。小太郎が思わず首から「あやべ温泉}のカードを下げている案内係りの青年に尋ねた。
「古屋のおばあさんはどの人かね?」
「残念だが、うちには来てもらえんかったよ」
「なんで?」
「古屋のばあちゃんは、暮れと正月は餠搗き指導で引っ張りだこだからな」
それでも、一人の爺さんが小太郎の取材申し出を受け入れて、捏ね方から搗き方まで教えてくれた。
「いいかい? どちらも腰だ。搗き手が「ヨイショ!」と搗いたら素早く「よいさ!」と両手で餅をこねて、腰を回してバケツに手を入れて熱を冷ますか、入れる真似をし次に備えて腰をためる、この時、目線は、臼(うす)の真ん中、杵(きね)が餅を叩くところから離しちゃなんねだぞ。捏ね方で成功したら、搗かしてあげるから、しっかりやりな」
搗き手希望の市民は小学生から高齢者までいて、並んで待っている。
古屋のおばあちゃんには会えなかったが搗(つ)き方も捏(こ)ね方も教わって自信はつけてきた。
餅も旨かったが、ゲストとして馳走になった創作会席コースの前菜、お造り(2種)、筍の炊合せ、豚のコンソメ鍋、鮭の幽庵焼き、
子持ち白魚、雲丹蒸し、酢の物、吸物に香物と山菜御飯、さらにデザートの豪華十二品、それに温泉で餅つきの疲れも癒えた。
母親への土産として買ったトチ餅も黒豆も民芸品も全て良かった。
そこまでは良かったのだが中学生時代に国語で見た程度の百人一首など、苦手どころか見たくもない。
「花誘ふ 嵐の庭の雪ならで・・・」
「ほう、若いのに短歌か? いい趣味ですな」
窓際の小太郎が小さく口ずさむと、通路側の隣席で眠っていた中年男がふと目を細く開けて呟きまた眠った目を。
背後の席から中学生らしい男の声が出た。
「ふりゆくものは 我が身なりけり」
前の席のおばさんが「作は入道さん、前の太政大臣ね」と、知ったかぶる。
邪魔が入って迷ったが別に痛くも痒くもないから、小太郎は続けることにした。綾部駅まではまだ三十分ほどもある。
「いにしへの 奈良の都の八重桜・・・」
こう読むべきだったが、いにしへ、まで読んだところで横の席の女子大生と思われる娘から声が出た。
「けふ九重に にほいぬるかな」
背後の中学生がぼやいた。
「ちぇ、邪魔されちゃた。今度は負けないぞ」
参加者が増えたので、小太郎も仕方なく続けた。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に・・・」
これは、最初の二文字で二人の声が上がった。
「雲隠れにし 夜半の月かな」
「ぼくの方が少し早かった!」
前の席のおばさんがたしなめた。
「ほぼ同時よ。お二人ともご立派です。これは、紫式部の結婚前の歌ですね」
かなり後部の席から高齢紳士らしき声が飛んだ。車内が騒がしくなっている。
「詠み人の方、もそっと声を大きく願えんかな」
どこかで呟く声が小太郎の耳に入る。
「読み手が下手だから参加する気になれないわ」
「この人,ひどすぎるわね」
「つぎを早く!」
小太郎が詠もうとしたら、斜め前席の女性から上の句が出た。
「わたの原・・・」
焦った中学、大学の二人が競うように下句を詠んだ。
「雲居にまがふ 沖つ白波・・・あ、間違った!」
わたの原、に続いて「八十島かけて 漕ぎ出でぬと」が続き中学生が間違いを認めた。
「・・・人には告げよ 海人(あま)の釣り舟」
続けて、同じ女性が慣れた調子で上の句を詠む。
「君がため・・・」
ここで一瞬、間があってあちこちから同じ下の句が出た。
「長くもがなと 思いけるかな」
女性はすかさず、違う句を詠む。
「(君がため・・・)春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ」
「ずるいぞ!」
「これじゃ。後出しジャンケンじゃないか!」
「では、もうひとつ・・・」
女性が調子づいた。
「世の中・・・」で、一瞬止めた。
前の席の女性がすかさず苦情を呈した。
「あなた、そこで止めるのは邪道ですよ」
「そうだ、そうだ。前の詠み手に代われ、男のほうだぞ」
ご指名だから止むを得ず小太郎が、覚えたばかりの記憶を辿りながら棒読みで詠む。
「世の中は 常にもがもな 渚こぐ・・・」
「あまの小舟の綱手かなしも」
少しづつの時間差で五、六人から同じ答えが返ってきた。
車内放送で、間もなく綾部駅に着くことが知らされ、列車のスピードが落ちた。
小太郎が百人一首本を慌ててバッグに詰めていると、斜め前の席で小太郎から上の句を奪って諳んじた女性も立ち上がった。
熟女と呼ぶに相応しい四十代の和服姿の女性が、小太郎を見つめて嫣然と微笑んだ。
「お兄さん。その百人一首は綾部では役に立ちませんのよ」
列車が綾部駅に着くと、女性は謎の言葉を残してキャリーバッグを転がして改札口に向かった。