2、綾部の第一歩

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2、綾部の第一歩

久しぶりに綾部を訪れた山下寅二郎は、近代化の波がこの京都の奥座敷にまで及んでいることを知った。
駅の北口にはアールイン綾部などという立派なビジネスホテルがあって、とりあえず「一休みしようかな」という気にさせて旅客を誘い込む。寅二郎もごく自然の成り行きで、駅から1分もない洒落たつくりのそのホテルのエントランスを通ってロビーに足を進めた。
コーヒーでもという軽い気分で立ち寄ったのだが、午後も一時半を過ぎたのに、広いロビーの三分の一ほどのスペースを用いてまだバイキング・ランチの営業中だった。和洋に中華も入れ混じった美味しそうな料理の匂いが寅二郎の鼻孔をくすぐり、京都の駅ビルのレストランで早目の昼食を済ませたのを忘れさせて食欲を誘った。手書き看板には、”バイキングランチ・千二百円”とある。
軽食でもと思ってフロントで料金を払うと、すかさず「お泊りですか?」と声がかかる。
「コーヒーでもと思って寄っただけだ」
「当ホテルにお泊りになりますと、温泉の当日入浴券を進呈します」
「温泉? そいつはいいな」
「それに、一階の中華料理”レストラン綾家”は深夜十時まで営業しております」
「綾部では夜の十時で深夜なのか?」
「はい。ドリンク券を差し上げますので皆さんに喜んで頂いております」
「それより、レンタカーの案内はあるかね?」
「ございます」
愛想のいい黒服蝶ネクタイの従業員が、小さく折り畳んだ綾部市のガイドブックを手渡してくれた。
黒カシュー塗り流線型の大テーブルが二基あり、七、八人ほどの客が三々五々くつろいでいた。適当な空席を見つけ、酢豚や焼売でコーヒーを飲みながらガイドブックを見ていたが、ふと周囲の会話が気になって耳をそば立て、声の主のほうを盗み見た。そこには品のない顔の会社員風の男が二人、何事かを憤慨している。
「わしら、そなに凶悪犯に見えまっしゃろか?」
「わいは間違うてもそないには見えんが、あんたは目が三白眼できついでそう見られてもしゃあないやろ」
「あんたまでバカにしおって」
すると、その近くにいた一見紳士風の中年男が口を挟んだ。
「おたくらも調べられましたか?」
「あんたもでっか?」
「私は千葉から京都観光に来て、ついでに綾部もと昨日、仲間一人とここに別々に泊まったのですが、すぐ刑事が来ましてな」
「やはり・・・」
「凶悪犯追跡中とかで、二人連れのよそ者は全部調べるそうですな」
「お互いに、とんだ災難でんな」
「隣室に泊まった相棒なんか、ついに怒って・・・」
「どないされました?」
「今朝、私に挨拶もせずにフロントに「帰る」とメモを残してホテルを出てしまいました」
「では、お一人で観光でっか?」
「いや、もう帰ります。こんな恐い街にいられませんよ」
「デカさんの話では、ワルの狙いは決まっとって一般人には危害は及ばんらしいでっせ」
「とばっちりで流れ弾に当たる可能性もありますよ」
「千葉県人は、ずいぶんと肝が小さいでんな」
「何を言う! 長嶋茂雄さんも飯岡助五郎も千葉ですぞ」
「飯岡? それ誰どす?」
「知らなきゃ知らんでいい。わしらの郷土の英雄だ」
そこで、千葉の男が立ち上がって部屋に去った。多分、帰り支度をするのだろう。
大坂の二人連れが会話を続けた。
「わいは、笹川の繁蔵のほうが人気があると思うたがな」
「ま、黒谷のもみじ祭りを見たら大阪に帰りまひょ」
寅二郎は、目くそが鼻くそを笑うような話題から離れて料理を求めにっち上がったが、もう手羽焼きも牛の角煮も姿を消していた。
ドリップ式のコーヒーを炒れて席に戻り、レンタカーを探すことにした。
トヨタ、ニッサンの他にサンケイ、バリュー、オリックスなどレンタカー会社が綾部市内にあるが、綾部駅周辺は避けておきたい。隣の高津駅から探すと、綾部レンタカー、共栄レンタカーの名が目に入った。
職業柄、偽造免許証は用意してあるが、追跡調査で偽名がバレるのは好ましくない。それを考えると綾部市内は避けて、観光客で需要の多い京都駅周辺、例えばタワー左手の日産レンタカー京都駅前店などでヴィッツかデミオを一週間借りても六万円内、それが正解だったような気もする。