5、綾部の防火対策

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5、綾部の防火対策

小太郎は、京都の奥座敷にして文化財の宝庫である「あやべ」を日本の歴史的名所として京都・奈良観光の一端に加えさせねばならないと

思っている。この街に住んで土地と人に馴染むにしたがって、その思いは強くなっていた。
梅祭りにしてもただ梅の花を愛でるだけではない。
中上専務理事は、気軽に「取材に行って来い」と命じるだけだが、梅を眺めて甘酒を飲んで済む問題でもない。どこもかしこも歴史的背景

があっての梅祭りだからだ。
なかには、梅祭りと銘打っていない梅の名所もあるからややこしい。
「何でもいいから行って来い!」
追い立てられるように出かけて来た市内位田町(いでんちょう)の桧前不動尊の例祭もその口で、梅の香が匂っていた。
何の前知識もない小太郎はここでもまた恥をかく羽目に立たされた。
市役所広報を代表して取材に現れた梅野木郁子と松山聖子が、親切そうで意地悪な質問で小太郎を困らせた。
「商工会議所を代表していらした大橋さんですから、この祭りの来歴ぐらいはご存知ですね?」
「知りません」
「この祭りも綾部の文化財であるぐらいはご存知ですね?」
「知りませんな」
「江戸末期の嘉永年間に始まったことは?」
「そんなの知ってるわけないよ!」
「遠い武蔵の国の成田山から分祀されたのが、この桧前(ひのきまえ)不動尊なのです」
「そうですか?」
「あら、せっかく教えて上げてるのに素っ気ないですね?」
「それは、感謝してます」
「この地の造り酒屋の初代だった村上清兵衛というお方が、成田山から不動尊の分身を頂いいて、この地に迎えて祀ったところ、当時の村人

を苦しめていた疫病治癒を祈願したところ、次々に難病治癒の人々が出て、以後百十数年、ここ瀬戸川のほとりに鎮座する不動尊は、里人と

旅人の無病息災の守り本尊と崇められているのです。分かりましたか?」
「分かりましたよ」
「この桧前不動尊例祭は、毎年、春分の日の午前10時から催されるんです。ほら、山伏姿の行者さんが瀬田川で禊ぎを済ませて上がってき

ました。これから本殿前で経文を唱え、その後、祈願所で参列者の無病息災を祈ってくれるんです。郁子さん、早く行って並ぼう。早いほど

ご利益があるからね」
松山聖子が先に立って駆けるように急いで去った。あの二人は、小太郎のことなど一瞬で忘れたに違いない。
それにしても、綾部の春の賑わいは華やかだった。
冬の間、何らかの祭り以外には滅多に姿を現さず、地の底にでも潜ったかのように静かだった綾部市民が、春の訪れと共にぞろぞろと蟻が

巣穴から這い出るように綾部市の中心部である市街地に群れるように集って来て商店街も活気づく。
季節が春めいて季節風が強く吹き火災から市民を守るための防災運動が始まった。
これは綾部だけではなく全国的なイベントだった。
綾部市内の火事の原因は、たき火が一番、タバコのポイ捨て、草焼きなどがそれに続くが、ボヤを含めて建物、林野、車両など年に十件程

度の火災事故が発生している。それでも全国都道府県市町村では極めて少ないのが救いで、都会に多い放火などは綾部では有り得ない。
綾部の防火活動が盛んなのには理由がある。川崎市長が率先して防火予防運動のトップに立って消防署長や団員を鼓舞するからだ。消防パ

レードや由良川放水イベントなども大々的に行い、他のイベントでは西山部長クラスが市長代行で出席するのに、消防となるとどの行事も、

必ず市長自らが参加するのが周知の事実になって綾部市民は嫌でも防火意識が高まってくる。
おかげで、市役所も消防署も各地区自警団も手抜きも気抜きも出来ず、商工会議所まで防火運動となると目の色が変わってくる。
中上専務理事までがタバコを控え、職員全員を集めた朝礼で訓示を垂れるほど異様な雰囲気なのだ。
「いいか! 綾部の商工業の発展、市民の財産を守るためにも防火運動は欠かせない。そのためには、三つの習慣、四つの対策だ」
どこかで「くすっ」と笑いをかみ殺した声が洩れた。
胸ポケの携帯から流れる音楽を細いコードフォンで聞いている小太郎のすぐ横で、福岡多佳子が口を押さえていた。
「誰だ! いま笑ったのは?」
思わず下うつむいた福岡多佳子を指さして中上専務理事が怒鳴った。
「福岡、なにが可笑しい!」
仕方なく顔を上げた福岡多佳子が遠慮がちに応えた。
「済みません。広報あやべで読んだ{いのちを守る七つのポイント}を思い出したもので」
「じゃ、そいつを言ってみろ!」
「三つの習慣は、一つ目が、寝タバコはやめる。二つ目は・・・」
そこで、横腹を白原百合が抓ったから言葉が詰まった。見ると白原百合が余計なことを言うな、と目配せしている。
「どうした、二つ目は何だ?」
「・・・済みません、タバコ以外は忘れました」
不快な表情だった中上専務理事の顔が一瞬で和んだ。
「そうか。人間の記憶なんて曖昧なもんだからな。一つ目は福岡の言葉に絶体を入れて、{寝タバコは絶対にやめる}だ。分かったか?」
「分かりました」
「二つ目は、ストーブは燃えやすいものには近づけない。三つめは、ガスコンロから離れるときは火を消す。これが三つの習慣ってことだ」
「すいません」
「なんだ萩原?」
萩原亜由美が不審気に続けた。
「丹波の黒豆など煮てるときは、傍に付いてられませんし、一々消してもいられません」
「そんなの臨機応変にやるのが主婦の知恵だろ。つぎは四つの対策だ。一つ目は住宅用火災警報器の設置。二つ目は寝具,衣類、カーテンな

どに燃えにくい防炎繊維を使用、三つめは消火器の設置、四つ目は、えーと、高齢者がどうかして・・・」
ごく控えめに芦沢事務局長が助け舟を出した。
「お年寄りや身体の不自由な方を守るため、ですか?」
「それだ、そのためにも隣近所の協力体制をつくる、この四つの防火対策が命を守ってくれる」
そこで中上専務理事が小太郎を指名した。
「大橋君、今のを復唱してみろ!」
小太郎が思わずイヤフォンを外して応じた。
「ゴダイゴのですか?」
「何を言ってる。火災から命を守る七科条だ」
「標語なら知ってます。守りたい、森の輝き、火の用心、です」
「何だそれは?」
「もう一つ。消すまでは、心の警報、ONのまま。どうです?」
「全部、広報からのパクリじゃないか?」
「専務の真似ですよ」
「もういい、何処でもいいから取材して来い」
ともあれ綾部は祭りと催事と学びの街だから、防犯、防火運動だけではない。日常生活に絡むものなら何でも学べるし、取材なら毎日でも

どこかで教室や講演会が開かれていて行く所には困らない。
介護者家族教室、子育て親育ち教室、里山・災害セミナー、里山そば打ち教室、パン焼き教室、離乳食講座、人形劇鑑賞会、それに、高齢

者も気らくひざ教室、糖尿病教室や自殺予防対策後援会・・・もう、何でもありなのだ。
小太郎の綾部生活は充実しているのかどうかはともかく、毎日が忙しく過ぎているのは確かだった。
市内のあちこちで展開された梅祭りが終わると、市内の小中高学校の卒業式、それに次いで入学式、桃と桜の季節が訪れる。