2、もの忘れ

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2、もの忘れ

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女性が自分の発言をメモるのを見て、中上専務の表情には明らか焦りが出た。
これでは、調子づいての得意な口から出まかせのアドリブが効かなくなる。
この肌寒い秋風の中なのに、しきりにハンカチで汗を拭いていることからでも、その苛立った心境は小太郎にでも読み取れる。
案の定、専務理事の口が滑った。
「もの忘れのひどい人がメモをとる習慣は大変いいことです。そんな人に朗報です。本日、この産業まつりとの同時開催で、青野町の綾部市保健福祉センターで、老化防止の「すこやかフェスティバル」が開かれています。午後二時からは、認知症の予防と治療と題して、京都府立医科大学精神医学教室の張本太郎先生が講演されます。綾部市立病院で、認知症を担当されている先生ですから、もの忘れが気になる方は、是非、行ってみてください。しかも、そこでは、骨密度測定や血管年齢測定)も無料です」
そこで、運悪くメモから顔を上げた女性と中上専務の視線がピッタリと合って、一瞬、激しい火花が散った。
「今、認知症うんぬんと言ったのは、わたしのことですか?」
「いいえ。とんでもない。決して、そんな気は、ついメモをとっているのを見て・・・」
「はら、やっぱり! メモなんかなくても覚えてますよ」
「だったら、私の発言の要旨を言ってみてください」
「言えますとも。コーヒー、炊き込みご飯、ボン菓子、ポップコーン、おにぎり、米粉料理、ビンゴ大会の豪華景品、生協商品の試食や試飲。どうです?」
「なんだか無料の品ばかり並べたような気がしますな。では、有料だがタダ同然なのは?」
「有料・・・うーん、残念ですが思い出せません」
「ほら、やっぱりもの忘れがひどくなってるようですな」
「だったら、中上さんて言ったわね。あなたが、今、わたしが言った飲食物だけを言ってみてください」
「そんなの簡単ですよ。コーヒー、おにぎり、ビンゴ大会の豪華・・・あれ?」
「ほら、なにか忘れてるじゃないですか、第一、ビンゴの景品は多分飲み食いできませんよ」
初老の男が、中上専務理事を擁護(ようご)して怒鳴った。
「もの忘れは年相応に誰でもあるもんだ。オレも講演を聞きに行くから、お前さんも行って来い!」
司会の土屋えつ子が、場の空気を見て中上専務理事の危機を救った。
「時間が押してます。管弦楽団の曲が減ると苦情が出ますよ」
中上専務理事が立ち直って胸を張った。
「時間があれば、あれしきのこと一言一句言えるのに残念ですな。皆さま、今日一日、大いに楽しんでください」
ここで市長以上の盛大な拍手が起こった。中上専務は手を振って少し得意そう、大いに残念そうにな顔で特設舞台から降りた。
明らかに退場を喜んでの盛大な拍手だったのは、専務理事以外の誰の目にも明らかだった。
喋りたりない中上専務理事が、小太郎を見つけて八つ当たりで怒鳴った。
「まだ、ここにいたのか。今、何時だと思っとる!」
小太郎が母に貰った腕時計を見た。
「十時四十分ですよ。専務は持ちタイムを十分もオーバーしました」
「うるさい。早く取材に行って来い!」
「何から始めますか?」
「なんでもいい。三番街の抽選会場、十一時十五分からのお握り試食会、二番街の丸太切り大会は?」
小太郎ガ口を挟む。
「それじゃ、丸太をパスして、お握りに行きます。お腹も空いたし」
「丸太切りは午後からも二回ある。西町三丁目の神栄テクノロジーの工場敷地内、武道館の隣だ」
「そこは何でしたっけ?」
「B級グルメフェスタの会場だ」
「それです! そこに行きます」
「とにかく、しっかり取材をして来い!」
こうなると順番も何もない。片っぱしから取材するだけだ。、
中上専務が去った後の演台上には楽器を抱えた管弦楽団のメンバーが集まっていた。