6、合氣道の達人

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 6、合氣道の達人

深夜、小太郎が撮ったデジカメ写真を元に、綾部警察署の会議室で事件の検証と緊急の捜査会議が開かれた。この平和な文化都市・綾部にも、ついに恐るべき暗殺者がその姿を現して凶行に及んだ。綾場警察署長および市長としては、善良な市民の安全安心のためにも、これを一刻も放置することは出来ない。絶対に逮捕して災いを絶つのだ。当然ながら綾部市には、善良じゃない市民など一人もいない。
出席者は、川崎源也市長、西山隆夫部長、新川康博署長、長谷川宗男刑事、佐川幸一鑑識課長、大橋小太郎、他に刑事五人、現場の騒ぎに加わった藤堂巡査部長と橋爪巡査、この二人の警官を含む制服組が八人、それにオブザーバーとして中上専務理事が呼び出され、総勢二十人が集まって、暗殺者の行方を追うことになった。
「ここに貼った拡大写真は、いずれも大橋小太郎さん撮影の画像で、何ら細工はされていません」
まず鑑識の佐川鑑識課長が写真の正当性を証言して会議が始まった。
会議室のホワイトボードには、B4ほどに引き伸ばされた六枚の写真が貼られている。
1枚目は、市長が茶のコートを着た男の襟をつかんでいる画面だが市長の背が高いため、男の顔が頭と額とメガネだけしか映っていない。
2枚目は、二人の警官が両側から割って入って市長と男とを引き離しにかかっていて、歪んだ男の顔が半分、鼻から上と左手の袖口から時計とシャツがかすかに見える。
3枚目は、もう一人の警官が市長の背後から組み付いたが、軽くいなされて前のめりになり、茶のコートの男の後姿が雑踏に紛れている。
4枚目は、西山部長が女性に襟をつかまれて困惑している状態の写真。
5枚目は、警官が警棒で川崎市長に殴り掛かっている写真。
6枚目は、川崎市長が右の掌底で警官の一人の喉を突くと同時に、左の手刀で一人の警官の頸部を叩いた瞬間。
新川康博署長が会議の趣旨を説明し全員の意見を求めた。当然ながら出席者全員に、大本教正門下事件の経緯は知らされている。
「ここに集まった諸君ご存知の通り、先日来、警視庁からの情報通り、ついに巨大詐欺集団から派遣された暗殺者が役所の西山課長の命を狙って動き出した。今回は、本署職員のカン違いで取り逃がしたが、商工会議所職員・大橋氏の写真の何枚かに犯人像が映し出されている。これについて諸君の忌憚ない意見をお聞かせ頂きたい。だが、その前・・・」
署長が疑わしげな眼で川崎市長を見た。
「市長は、西山部長の前を歩いていましたな?」
「そうです」
「あの雑踏で、背後の西山部長のそのまた背後から襲った犯人の行動をなぜ瞬間的に見抜いたのですかな?」
「さあ? こればかりは我ながら答えようもない咄嗟の出来事で、一体全体何が何やらさっぱりで」
明らかに市長は困惑している。
長谷川刑事が矛先を変えた。
「藤堂巡査部長と橋爪巡査、あんた達は、川崎市長が拿捕した重要な案件の犯人を逃すという重要な失点を犯したんだぞ」
市長がそれを制した。
「いやいや、あの混雑の中で騒ぎを見たら素早く鎮圧に対応するのが警備の役割、二人を責めるのは止めてくれ」
「なんだ川崎、いや市長、二人を散々、殴り倒しておいて、今度は庇うのか?」
「おい長谷川、その口の利き方は何だ! それだから未だに警部補どまりの刑事なんだ」
思わず西山隆夫が割って入った。
「二人とも止めろ! 小学校から高校まで一緒だった仲間じゃないか?」
「なにが仲間なもんか、おれ達が応援したから市長に・・・」
「冗談言うな! 真面目な綾部市民の尊い一票と、きさまの一票を同じにするな!」
「やめろ! それより長谷川、もっと真剣に公務に励め!」
「なんだと西山! もう一回言ってみろ。今、京都府警はきさまの命を守るために貴重な税金を使ってるんだぞ!」
「何回でも言ってやる。もっと公務に励んで早く犯人を捕まえろ!」
「その態度が気に食わん。早く捕まえてください、と頭でも下げてみろ!」
「よし。すぐ捕まえてくれるなら何度でも頭を下げてやる。お願いします、お願いします」
署長が呆れた。
「仲間内のケンカは後で飲みながらやってください。ここでは犯人像を特定したいのです」
「その前に・・・」
市長に痛い目に遭わされた一人、長身の藤堂巡査部長が挙手して川崎市長に聞いた。彼には謎だらけなのだ。
「本官は警察生活約二十年、柔道四段、剣道三段、空手二段、素人に負けるはずはありません。市長はなにか特殊な武術でも?」
市長の顔が曇った。ほとんど何も覚えていないのだ。
小太郎は、木の上から眺めた時の衝撃を思い出していた。
あれから、西山部長と会ってすぐ市長の特異な合氣道での身のこなしを話したところ、意外な返事が返って来た。
川崎市長は自分から周囲に話すことはなかったが、西山部長には、子供の頃に祖父から遊び半分で合氣道を教えられていたらしい、と話したことがる。いわばガキの遊びとして自然に身に着いたのが”合氣道”だから、川崎市長は多分、自分が強いとか弱いとか意識したこともないのが事実らしい。ただ、これまでに何度となく、酔っぱらに絡まりした仲間を救ったエピソードや、争いから身を守った話などがあることから、やはり本格的に合氣道を身に着けているのは間違いない。
これは噂だが、と前置きをおいて西山部長は小太郎に語った。市長の九大(経済学部)時代には、よく、箱崎キャンパスの仲間を引き連れて博多や天神の盛り場を飲み歩き、地元のごろつきに絡まれて五、六人の相手を瞬時に倒した武勇伝も伝え聞いた。昭和五十五年入社の日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)で企業戦略部長や国際部長を歴任後、地方再生事業や途上国の開発支援や企業戦略に携わることになり、米国で経営学修士(MBA)を取得した上に、ワシントンの世界銀行本部へ出向した時期がある。その折りに、猛烈な仕事や学習の反動でストレス発散の癒しを兼ねて休日を利用し、見分を広めるという大義名分で、ロス、シカゴ、ニューヨークなどアメリカ各地に出没してクラブや音楽パブに入り浸っていた時期がある。
昼間は無事無難なのだが、当時の自分を回想して市長が西山ら仲間に漏らしたエピソードから推測すると、どうも川崎市長は夜の世界との相性があまり良くなかったらしい。日本人にしては長身で精悍で目つきが悪かったのか鋭かったのか、歩いているだけでジャップ!」と絡んで来る国籍不明の外人がどこにでもいて、いささか辟易していたとも聞く。
川崎市長は、若い頃から争いを好まない完璧な平和主義者だから、絶体にケンカなどしない。たとえ、殴り掛かられても相手にしない。ただ、右の頬を殴られたら左の頬も出すほどは修業が出来ていないから右の頬も殴らせない。殴られると痛いし、誰でも殴られて痛いのは好まない、川崎市長とて若い時から生身の体、殴られるのは歓迎しない。したがって、凶暴で大柄な相手が殴り掛かって来たとしても、おとなしく身を避けて空を切らせ、瞬間的に防衛型反撃で相手の懐に飛び込み、軽く手刀か掌底で急所を突くか叩くだけで絶対に争いはしない。だが、大抵の場合、相手は声もなく崩れ落ち大地に横たわって呻いている。これが一瞬の出来事だから、周囲では何が起こったか分からない。そこからは、同行者がいる場合は「逃げろ!」と声を掛けて全速力で逃げるだけ、同行者がいても逃げ足だけは誰にも負けない。聞くところによると、綾部幼稚園、綾部小、綾部中、綾部高校と駆けっこだけは現市長に勝てる者はいなかった。もしも、相手が拳銃を撃ったとしたら、撃たれるのは同行者、気の毒だが仕方がない。
いや、川崎市長は世界平和主義、人類みな兄弟、誰が傷ついても主義に反してしまう。市長は昔から、そんなことは望んでいないはずだ。

そんな時、合氣道の達人である川崎市長が同行者をかばって自分が両手を広げて銃弾の的になる・・・そこで小太郎ははたと気がついた。これなら、市長は自分と西山部長を身を挺して守ってくれるに違いない。いや違う。助けるのは旧友の西山部長だけ、自分はよそ者だから所詮は自分自身で身を守らねばならない。
それにしても、自分を狙う暗殺者は一体全体どんな凶悪なヤツなのだろう?
「鑑識課長。ナイフから指紋は?」
刑事の一人が挙手して質問を飛ばした。会議は始まっている。
「出ません。犯人は手袋を嵌めていました。
「凶器の出所、製造メーカーは?」
「佐治武士(さじ たけし)作の山刀、渓流剣鉈(けいりゅうけんなた)です」
佐川鑑識課長が白手袋で柄を?んで高々と振り上げた山刀の刃が蛍光灯に反射して不気味な光を放っていた。
小太郎は息を呑んだ。