1、心新たに

Pocket

第十章 綾部の春

 1、心新たに

大橋小太郎は、30日の夜に帰京して大晦日から元日にかけての年末年始を都内北千住の実家で迎えた。
母子家庭だから掘り炬燵(こたつ)を囲んで二人だけで熱燗の酒を飲み年越しそばを食べ、大晦日は、紅白やお笑い番組を見たり母の肩を揉んだりしながら過ごした。母の名は大橋勝子で四十八歳、近くのスーパーの正社員で係長、レジの責任者を任されている。
入谷や三ノ輪までは浅草寺の除夜の鐘が聞こえるらしいが、大橋親子はテレビ中継の鐘の音で年を越した。
小太郎の家は、離婚後の母が必死で働いて購入した築三十年以上の木造二階建ての古家で庭も猫の額ほどだが、小太郎親子にとっては立派な難攻不落の城だった。この家は千客万来、いつも知人友人の溜まり場になっていた。それというのも立地条件がいいからだ。
JRや私鉄各線が交差する北千住駅西口から歩いて四号線道路を越えた右側の千住寿町、遠くに住んでいて終電に載り損ねた友人などが定宿にするから、小太郎が綾部に行ってからも家は賑わっていて、母親が孤独を嘆いている暇はなかったらしい。
それと、大晦日の夜だけは親子水入らずで過ごしたが、元日は夜が明ける前から忙しくなる。例年、悪ガキ時代の仲間と殊勝にも初詣に出かける習慣があるからだ。したがって布団に入って寝る時間がないからコタツにうつ伏せになって仮眠して夜明けを待つのが常だった。
案の定、元日の朝、まだ暗いうちに下駄屋の佐伯幸次と家具屋の斎藤三吉、NTT勤めの小坂茂夫が連れだって現れ、神妙な顔で小太郎の母親に頭を下げ、新年の挨拶をした。この四人は、地元の千寿本町小学校時代からの仲間だから今後も長い付き合いになりそうだった。
「明けましておめでとうございます」
「おめでとう、寒いから戸を閉めて中にお入んなさい」
さっさと上がり込んだ三人もコタツに足を入れると母親がお屠蘇と料理を用意し、お年玉袋を小太郎以下全員に配って満足げに諭す。
「お金は大切に使うんだよ」
中身はせいぜい三千円、それでも五年前の千円からみれば格段の差がある。これで小太郎の母親の威厳は保たれる。
「有難うございます」
小さい頃からの習慣だから誰も遠慮なく頂き、少し間をおいてから四人夫々が用意した年賀の祝儀袋を勝子に手渡した。
「これは何の真似だね?」
驚く母親に小太郎が説明した。
「仲間で話し合ってきめたんだが、みんな稼ぐようになったからお袋にお年玉をやることになったんだ」
「少ないけどとってください」
「今までの恩返しですよ」
「気持ちだけです」
小太郎の母は、お年玉袋を拝むように額に押し当て、素直に頭を下げた。
「有難う。いつまでも子供だと思っていたけど、みんな立派な社会人になってたんだね」
小太郎が乾杯の音頭をとって年賀の盃を交わし、仲間四人で初詣に行くことになる。
これは習慣だが、小太郎の家から北千住駅への道筋を北に迂回して地元の氏神様・千住本氷川神社に立ち寄り、北千住駅から東武線で西新井駅まで行き大師線に乗り換えて西新井大師に初詣するのがここ何年かの通例になっていた。
「小太郎は、この駅で人助けしたのが縁で綾部って町に勤めるようになったんだってな」
「いきなり部長になったって、お前のお袋から聞いたがウソだろ?」
「殺し屋に狙われたって本当か? 警察が家にきたそうだぞ」
これらの質問に答えている間に、満員電車から参道へと人並みに押されて初詣のベルトコンベアー状態で神社にたどり着いていた。
江戸時代後期に建てられた由緒ある仁王門を潜って超満員の境内に入ると、本殿上部に「謹賀迎春」と達筆で書かれた大看板が目に入る。
本堂の大扉は普段は締められているが元日の午前零時に初詣客のために開かれ、終日、混雑は絶えることがない。小太郎達も境内に入ってから一時間近い時間を要してようやく本堂に近づいて僅かな賽銭を投げ入れ、無病息災・収入増・恋愛成就などを願い、三拍ニ礼の参拝を済ませた。その後また長い行列に並んで縁起物の破魔矢を買っておみくじを引く。
今年の小太郎は”小吉、果報は寝ていては来ない。よく働いて待てば末吉。待ち人来たらず。金運は並、望まぬ仕事あり”と出た。
「普通なら、果報は寝て待て、だろ? お前らはどうだ?」
下駄屋の幸次が大吉、斎藤三吉が小吉だが待ち人来たる、NTTの小坂茂夫が凶と出て憤慨している。
「おみくじなんか当たるもんか!」
その時、小太郎の携帯が鳴った。
見ると、中上専務理事からの年賀メールだった。
「明けましておめでとう! 親孝行したか? 喜べ、仕事が増えた、商店街の新年会が三日にある。参加されたし」
思わず小太郎はおみくじを見直して「望まぬ仕事あり? おみくじは当たるぞ」と仲間に言った。
「当たるもんか。おれなんか”凶、八方ふさがり、障り多し、だぞ!」
小坂茂夫が毒づいて、おみくじを細く畳んで傍らの真っ白におみくじの花が咲いた榊の枝に結んでいる。
それから人混みの中で軒を並べて大繁盛の露天を冷やかし帰路についた。
これで五日出勤の予定が狂ったが、これも専務理事の性格から見て想定できたことだ。
”綾小町””燗ばやし”、綾部の旨い酒で新年会も悪くない、小太郎の気持ちは早くも綾部に向いていた。