2、そば四百年家

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2、そば四百年家

ミツエがさっさと歩き出したので小太郎が追いついて聞いた。
「ここの会場で何か食べれば?」
「ここじゃ無理よ。もう行く店は決まってます」
「どこです?」
「わたしがナビをしますから黙って運転してください」
「今日は何を食べるんだね?」
背後から無口で温厚な丸顔の安東芳江が口を挟んだ。
「四百年そばです」
「四百年? そんな古いそばを?」
「店の名前ですよ。そば四百年家って名乗ってるんです」
「四百年前だと、関ヶ原の戦いが終わって豊臣家滅亡寸前、そんな古いそば屋が?」
下山は歴史に詳しいらしいが、小太郎にはさっぱり意味が通じない。
月極の駐車場まで歩いて、小太郎がバンガードのドアを開けると、ミツエママが当然のように助手席に乗り込んでベルトを肩にした。不満そうな唐沢栄子が下山を三列目で後部の予備座席に押し込み、女性達三人が二列目に乗り込んで車は出発した。
「綾部大橋で由良川を渡ったら右折して山家(やまが)駅前の道を左折・・・」
「そこまでは何度も走ってます」
「そこから上林方面に行くのよ」
「つい先日、武吉の金毘羅祭りに行ってきました」
「そのまた先まで行くのよ」
「え、その先なんて山ん中で熊が出ませんか?」
「そんな、上林の人が聞いたら気を悪くしますよ。それに、熊はもう冬眠に入ります」
出発して三十分ほど走った府道の左側に、金毘羅祭りを司祭した神主の河牟奈備(かむなび)神社が見え、車は八津合町に入った。
宝蔵寺を通過した左側に、そば屋四百年家の看板が見え、少し高まったところに古びた建物があった。
そこの店のまだ若い経営者の説明で謎は解けた。
「築四百ねんという古民家を買い取って、長年の念願だった蕎麦屋で独立する夢を叶えたのです」
ここでは、客の注文を受けてから粉を挽き蕎麦を打ち、茹でてからさらに蒸して蒸篭(せいろ)のまま客に出す。
「この人が何杯食べられるか賭けをするんです。続けて茹でてくれますか?」
渡辺と名乗った若主人が怒った。
「そんなの他の店でやってください。うちの営業時間を見ましたか?」
看板を見直すと、午前十一時から午後二時までで月曜休日となっている。
「今からだとあまり時間もありませんね?」
ミツエママが心配そうに腕時計を見た。
「皆様のご注文は、お一人一人前として一回だけ打ち、今日はこれで打ち上げです」
店主は笑顔で腰は低いが昂然と念を押した。
「それで宜しゅうございますね?」
仕方なくミツエママが頷き、店主が去ると女性たちの不満が爆発し、唐沢栄子がミツエに噛みついた。
「これじゃ賭けは不成立よ。私は八杯、ミツエさんが十五杯、喜美代さんは十杯、芳江さんは十二杯でしたね?」
「それが一杯で終わりじゃ」
「一番大きい数字の人が負け、負けた人が全部払う約束でしょ!」
三人のご婦人が、しとやかさを一気にかなぐり捨ててミツエママを睨んだ。
そこには友情の欠けらも仲間意識の親しさも感じられない。
「いいわ。今日はわたしの負け、会計はお引き受けします」
これで全員のご機嫌が直り、本来の親しい仲間に戻れたらしい。
しかし、ミツエママも一筋縄ではいかない女だった。
「こうなれば、家庭を忘れて夕飯で勝負ね。大橋さん、いかがですか?」
「次の仕事がありますので」
「じゃあ、次の機会に」
「はい」
下山が思わず呟いた。
「それまで生きていられるかな?」
これをミツエが耳にして、下山に聞いた。
「確かに・・・二人組の殺し屋が商工会議所の新人を狙ってるって噂、あれは本当ですか?」
「さあ。二人組かどうかは知らんが、そんな噂は聞きました」
「やっぱり! こうなれば私たちがその殺し屋の正体を暴いて警察に突き出します」
「そんな・・・女性には無理ですよ。そんなの止めてください」
「なんで? あなたには関係ないでしょ!」
「でも・・・」
「あなた! 女性を甘く見ると痛い目に遭いますよ」
「甘く見るどころか、厄介で手強い存在であることは重々承知しました」
「あなたが警戒することないでしょ? わたし達は二人組の極悪人を探すんだから」
「そうでした」
そばが茹で上がって来た途端に会話は止んで無言のランチタイムに突入、そばを啜る音だけが築四百年の建物内に響いた。 細ネギ薬味と濃厚な蕎麦湯と共に、蒸して湯気の立つ温かい蕎麦を冷たい汁で音をたてて啜り込むのど越しの旨さが堪らない。
ほぼ同時に食事を終えた全員の声は異口同音、「旨かった」「美味しかった」で一人のご婦人を除いた全員が大満足だった。